こんな時間だからか

仁和寺の僧侶がバイオリンを弾く映像をツイッターで見た。音色は美しくご本人も幸せそうだった。神職に就く方の個性が色濃くでた瞬間ああこの人は神に仕えるまではどうやって生きてきたんだろうと想像なんかを巡らせてしまう。やっぱり育ちいいのかしら、なんてね。我ながらいやらしい。

そこから仁和寺のアカウントへ飛んだ。
寺は元々好きだ。
遡っていったら寺内の写真がたくさんでてきた。
桜と共にある寺を見ていたらワアッと泣きたくなってしまった。

私は海外に住んで2年半ほどになるけど、桜だけはどうにもホームシックになる。
けどここまで泣きたくなったのは初めてで、感情の渦に忙しくなると同時にはてどうしたことやらと冷静に頭の片隅で考える。

一時帰国のたび、一度は寺に行く。
京都が多い。けどこの間は伊豆の修禅寺。
引いたおみくじと、いただいた御朱印に添えられた紙に完全にノックアウトされてしまった。御朱印帳をイギリスへ持って帰るか迷った。そばにあったら心強いと感じたから。しかし実家に置いておくのが一番安全だと諦めた。
代わりに画像を撮ったのだ。カメラロールのハートを付けて、時たま読んでみる。

無宗教なのだがこういうところがある。
英語でいうところのnon religious but spiritual と言ったところだろう。
ちなみに自らスピリチュアルと名乗ったことはない。こう言った習慣を説明したこともない。強いポリシーがあって話さないわけでもないけど。

安心する。お寺は心から安心できる。
ああ言った場所が必要なのだ。深呼吸できるような。
それに加えて桜ときたら、泣きたくもなる。

静を思わせる建物がこちらにはないのだ。
自然も含めて違う。美しい木々も花もある。緑はある。けどそれらがくれるエネルギーがちがう。
お寺には静のエネルギーに、静の受け皿がある。それに身を委ねることで私は深く呼吸ができる。

チネイザンを施受する友人に「吸う息と比較して吐く息が浅いね」と指摘されたことがある。
自らの身体に関して気付いていたことを初めてはっきりと他者に言語化された瞬間と言うのは記憶に刻まれるものである。
今年の学期の始まりのモノローグを自分で書き演じるプロジェクトの際にも担当の演出家に感情の昂りと共に呼吸が胸まで上がる癖についてこっ酷く言われた。それは俺が治せるものではない。お前に必要なのはコーチングだと。少し傷付いた。というか少し驚いた。感情が高ぶればみんなそうなるものかと本気で思っていたし、それを問題として突き付けてきたのは彼が初めてだったから。
けど呼吸が胸に上がることを止めることができないのは呼吸がコントロール出来ていない事を指し、それが問題なのは無論理解できる。

脱線したな。何が言いたかったんだっけ。
そうだ、寺。呼吸。酸素。安堵。

今だけでいい、たった30分。ううん、15分でもいいや。
誰に会えなくたっていいからお寺でぼうっとさせてほしい。

そんなことを書き連ねる3:42である。